現在の位置:ホームページ >宋慶齢>宋慶齢一生

       1893年1月27日、宋慶齢は上海の一つの牧師兼事業家の家庭に誕生した。彼女の親は孫中山の友と同志として、彼女の初めの啓蒙先生である。少年時代、彼女は異郷で読書し、アメリカに「ヨーロッパ式教育」を受け取り、民主主義の洗礼をも受け取った。辛亥革命は清朝の専制統治を転覆し、彼女は祖国に対する独立、自由、民主と富強についての憧憬が胸一杯になる。親父の続々と寄付した手紙と新聞の切り抜き資料は、彼女の心中に孫中山の指導した革命事業との間に掛け橋を立てかけた。但し、共和国は揺籃に扼殺され、革命の大きい汐はすでに消失し、宋慶齢の帰国後祖国を改革と建設の抱負が発揮出来なかった。彼女はまっすぐ亡命した革命党人の集中した東京へ行き、まもなく、孫中山の助手を担当し、彼女の70年に渡る革命生涯を開始した。

  1915年10月25日、宋慶齢は親の反対に考慮せずに、毅然と亡命中の孫中山と結婚し、しっかりした立場に立って孫中山に追随し共和制度を防衛する苦難に満ちた闘争歴程を踏むことにした。1925年3月12日に孫中山は北京に逝去し、彼は「平和、奮闘、中国を救う」の嘱託を宋慶齢と彼の同志に手渡した。

  1927年8月、宋慶齢はソ連を訪問、以後は4年間ヨーロッパに居住、世界上の初めの社会主義国と幾つかの主要な資本主義大国を実地調査、マルクスの著作を読んで、亡命するヨーロッパの多くの中国革命者といっしょに中国革命の主体問題--土地と農民問題を検討し、思想上に大きな質の飛躍があった。

  日本帝国主義の中国への侵略拡大につれて、民族矛盾は社会主要矛盾に上昇した時に、宋慶齢は迅速に科学の判断と正確な決定を作り、「国難は眼前に迫って、これまでのしこりを水に流して、挙国一致団結の上日本に対抗し、最後に勝利を勝ち取るべきである」。彼女の全国団結抗戦の思想は、「左翼」教条主義を克服した中国共産党抗日民族統一戦線の戦略方針と一致であった。しかも彼女は国共両党のために第2回の合作実現のために架け橋の役割を果たし、掛け替えの出来ない特別な役割を果たした。

  1949年9月21日から30日にかけて、中国人民政治協商会議第1回全体会議は北京に開催、宋慶齢は中華人民共和国中央人民政府副主席、中国人民政治協商会議第1回全国委員会常務委員に当選した。

  1949年、中華人民共和国成立以後、宋慶齢は長期にわたって大量の国務活動を引き受けた。これと同時に、彼女は多くの精力を婦女と児童の文化、教育、衛生と福祉事業中に投入した。のちに彼女はずっと中華全国民主婦女連盟名誉主席、中華人民共和国全国婦女連盟名誉主席と中国人民児童防衛全国委員会主席職務を担任していた。1950年、彼女は世界平和理事会理事に選出され、1952年、アジアと太平洋連絡委員会主席に選出された。

  1954年9月宋慶齢は第1回全国人民代表大会常務委員会副委員長に当選。1959年4月7日、第2回全国人民代表大会最初会議は開催、宋慶齢は中華人民共和国副主席に当選。1965年1月、第三回全国人民代表大会は開催、彼女は中華人民共和国副主席を再任した。1975年1月、第4回全国人民代表大会に彼女は全国人民代表大会常務委員会副委員長に再度当選した。1978年2月、第5回全国人民代表大会は常務委員会副委員長を再任。1980年8月30日、第5回全国人民代表大会第三回会議に大会の執行主席を担当した。

     1981年5月14日、宋慶齢の罹った冠心病と慢性リンパ性白血病は悪化した。15日に中共中央政治局は宋慶齢を中国共産党正式党員として認められ、16日、全国人民代表大会常務委員会は宋慶齢に中華人民共和国名誉主席栄誉称号を授けた。1981年5月29日20時18分に北京に病死した。