譚杏、本名は譚兆嫦、中山南朗崖口村出身。1915年、翠亨村民の楊東と結婚、楊日松、楊日韶、楊日璋、楊日増、楊日昕、楊日芳の6人の子を育て、抗日戦争期間中、譚杏は突出した貢献をしました。1941年、中共南番中心県委員謝立全は譚杏の家で病気療養していました。彼女は毎日薬を煎じたり、ご飯を作ったり、心血を尽くして敵の捜査を避けました。譚杏の丁寧な看護のおかげで、謝立全の体は回復しました。1942年春、長男の楊日韶の手紙から、率先して中山五桂山間地帯に入って革命根拠地を作った遊撃隊員たちが食糧不足していることを知った後、家に僅かな二石の稲を米にして、娘の楊日芳を連れて翠亨の近くの石門村に米を運んで部隊にあげました。部隊が極めて困難な時に、彼女はまた自分の半生の蓄積と一部の穀物を全部部隊に捧げました。自分が結婚した時の金のアクセサリーも安く売り、実家に帰って金のアクセサリーを借り、自分の義姉にも豚を売って得たお金を部隊に捧げ、祖先が残した2ムー(13,400㎡)の畑さえ売ってしまいました。
1945年、日本ファシズムは最後の悪あがきを図ろうとしました。中山に大量に増兵し、五桂山間部と九区平原に大規模な掃討を始めた後、五桂山間部の一部の農村を占拠しました。譚杏は廖、賀、蕭らの革命女性を連れて、中山に滞在して闘争を堅持する指導者を保護し、部隊のために銃器弾薬を収集しました。譚杏は遊撃隊員たちから楊おばさんと親しみを込めて呼ばれていました。
譚杏と夫の楊東は積極的に六人の子が抗日戦争に参加することを支持し、楊日韶、楊日璋二人が相次いで犠牲になりました。長男の楊日韶が犠牲になった後、長女の日松を中山人民抗日遊撃隊に送りました。次男の楊日璋が犠牲になった後、また娘の日増と日芳を部隊に送りました。譚杏一家の革命事績は当時の中山人民及び中山の軍隊の中では誰もが知っていました。中山ひいては珠江デルタ地区でも模範的な役割を果たし、中山市の抗日歴史の輝かしい一ページとなりました。