陳興漢は1876年生まれ、孫文より10歳年下で、家は孫文の家の隣にありました。
1883年、17歳の孫文はホノルルから帰ってきて、海外のことや清政府の腐敗無能を村民に話しました。当時7歳の陳興漢は孫文の話に引きつけられました。その後、孫文が村の中で郷政を改良、道路を作るとき、よく家から飛び出し、孫文のことを見ていました。
陳興漢は早い時期に同盟会に参加しましたが、孫文とよく付き合うようになったのは中華民国成立後になってからです。1912年、中華民国臨時政府は南京で成立し、陳興漢は臨時大統領府の秘書として雇われ、同年3月5日、彼は発起人として孫文とともに南京で行われた広東省諸烈士追悼大会に出席しました。陳興漢は庶務に強い才能があり、孫文が広州で3回目の政権を樹立した時、彼の才能が再び発揮されました。1923年3月12日、孫文は陳興漢を陸海軍大元帥大本営庶務司司長に任命しました。
陳興漢のもう一つの才能は鉄道を管理することです。1923年4月17日、孫文は陳興漢を粤漢鉄道事務監督に任命しました。二日後、孫文は粤漢鉄道会社の董事局に今後鉄道の各事業は陳興漢が全権で処理すると命じました。孫文は「陳興漢は既に任命を受け、同時に共同推挙を兼ねて受け、全ての権利を与えるべき。賢く機敏に事を運び、戦機を逃すことなく鉄道の管理行政に役立つことを期待する」と言いました。陳興漢は担当の期間中、沿道の軍閥の利益関係をバランスよく調整し、道沿いの駐留軍の妨害を排除し、鉄道の管理行政を整えるなど軍人のスムーズな輸送を確保しました。
1923年4月、陳興漢は兵站総監部鉄道輸送局長に任命され、孫文、蒋介石らを伴って北路戦地を視察しました。1924年2月に、湘軍を励ますために、陳興漢と宋子文、陳友仁らは孫文を伴って車で広州北の郊外の江村に行って、湘軍魯滌平部を視察しました。
1924年1月、陳興漢は孫文に大元帥府財政委員会委員を任命され、財政参事官となりました。1924年2月、陳興漢は広三鉄道管理局局長兼代理広九鉄道管理局局長を担当しました。就任前、陳興漢は粤漢鉄道の事務が多く、顧みる暇がないという理由で孫文に命令を撤回してもらいたいと伝えましたが、孫文は「陳興漢は鉄道管理に才能と業績があり、広三鉄道管理局局長を担当する議論の余地はない」と言いました。
1924年5月5日、陳興漢は孫文の指名のもとで中国国民党広州特別市党部執行委員になりました。1924年6月3日、再度広州鉄別市党部執行委員会実業部長に選ばれました。1924年10月5日、孫文は陳興漢に電報で北伐の作戦計画を伝え、「車の準備をして、同様の計画を立てれば可」と言いました。抗日戦争が始まった後、陳興漢は京滬、滬杭甬鉄道の局長となり、軍事輸送を専任し、前線の兵士の輸送、物資の補給を順調に確保していました。「すべての人力の及ぶところに、力を合わせて駆けつけない者はいない」と言っています。