楊錫宗、字は礼紹、翠亨村一のお金持ち楊啓文の第十子で、かつて広州嶺南中学校と北京清華学校で勉強した後、米国に留学し、1918年にコーネル大学を卒業し、建築科学士を獲得しました。
楊錫宗は嶺南地域ひいては中国で一番早く正式に西洋の建築学教育を受けて帰国した建築家の一人です。彼の設計生涯は嶺南建築の近代化の発展と一緒となり、代表作は広州中央公園(今の広州人民公園)、黄花崗七十二烈士墓園、広州中山大学石牌新キャンパスの全体設計と第一期工事プロジェクトの設計、十九路軍淞上海抗日戦没将士陵園、広州銀行華僑新村、嘉南堂、南華楼などがあります。彼は福建漳州の市政建設の総技師を務め、顧問としてスワトウ市政府と協力して「スワトウ市政計画概要」を作成しました。そのうち保税区、工業区、金融区という区分概念は今の都市計画でも使われています。楊錫宗は建築図の設計と絵画が得意で、「一つの絵を描く時、心を込めて、必ず新たなアイデアを出す。完成した作品を世間に披露し、世の中の人を誘ってともにその優劣を鑑賞してもらう。彼の設計紙をもられば、千金でも喜んで払いたい」と言われています。
1925年3月12日、孫文が逝去した後、葬事準備処は全世界の建築家と美術家に向け陵の設計を募集し、「陵建築設計の懸賞募集条例」を制定しました。そして陵の設計には必ず「中国の古式を採用して特殊な記念性質を含む、或いは中国の建築精神に基づいて特別な革新を作る」と要求しました。楊錫宗はそれに応募しました。彼は「孫文陵計画説明書」の中で「総じて言えば、デザイナーにとって、陵の総体はわざと中国古代建築の各特徴の要素を求めると、美しさを合一した完璧体になるので、特別な記念意味を備えていない。そのため、古代建築の美と同時に近代の需要についても適切に対応したほうがいい」と総括しました。最後に国内外から応募した40余りの設計案の中で、楊錫宗は第三位を獲得しました。審査者の一人の凌鴻勲氏は楊錫宗の設計に対し、「美術的には非常に優れており、墓の荘厳さを示している。ただ後ろの山とは相称せず、立派すぎて、建築費が規定を超えてしまう」と評価しました。第一位を獲得したのは、同じく米国留学から帰ってきた呂彦直氏でした。
1926年1月、広州国民政府は『広州民国日報』で「中国国民党総理孫文先生記念碑設計図」を懸賞をかけて募集しました。楊錫宗はそこで第一位を獲得しましたが、残念ながら楊錫宗のデザインは最終的には図面上でのみの存在となりました。なぜなら、2週間後、広州国民政府は「中山記念堂建設委員会」を設立し、粤秀山山頂に記念碑を建て、山麓に記念堂を増築し、「前は堂、後は碑」という記念用の建築レイアウトをつくり、再び新聞に「孫文先生記念堂及記念碑図を懸賞募集」を載せたからです。楊錫宗も応募しましたが,26のデザインの中で、再度呂彦直に敗れ、第二位を獲得しました。1929年、楊錫宗は広州中山記念堂建築委員及び管理委員会の総幹事を担当しました。
著名な黄花崗七十二烈士の墓の計画も楊錫宗の作で、研究者は「楊錫宗は中国のブルジョア革命の理想――民族、民権、民生(孫文の三民主義)をよく把握し、緩和な叙事手法で展開している。突然の異変とわざとらしい起伏がなく、空間の雰囲気が静かで穏やかだ」とコメントしました。楊錫宗のもう一つのデザインは広州石牌中山大学の新キャンパスの全体計画です。第一期のプロジェクトは「鐘の形の平面構図で孫文先生の臨終の遺訓を強調し、イメージの概念で中山大学の歴史的由来を暗示した」。
楊錫宗は折衷主義、新古典主義、現代主義などさまざまな建築様式の中で積極的に探求していました。ある建築史の専門家は「嶺南建築の近代化過程の中で、とりわけ辛亥革命以降、本土の華人建築士は学んだことを地元に貢献し、嶺南地域の近代建築の発展のために不滅の貢献をした者と言えば、楊錫宗が第一人者である」とコメントしました。