楊殷は孫文に従った翠亨村人のなかで特別な一人です。彼は積極的に孫文の革命運動に参加しただけでなく、著名な工人運動の指導者と中国共産党の早期の指導者でもあります。
楊殷、名は観恩、字は典楽、号は命夔、1892年8月12日に翠亨村の豊かな家庭に生まれました。子供の頃から、塾に通い、その後石岐と広州で中学校の教育を受けました。
楊殷は孫文の同郷で、子供の頃から孫文、陸皓東、楊心如、楊鶴齢らの話を聞いていました。1911年の初頭、わずか19歳の楊殷は中国同盟会に参加しました。同盟会の南方支部副支部長、孫文の長兄の孫眉の指導の下で、広州、香港、マカオ、香山などを頻繁に行き来し、軍事情報の伝送や武器の輸送をしていました。
中華民国成立後、楊殷は依然として積極的に孫文の革命運動を支持していました。1913年、孫文は袁世凱の帝制復活に反対し、「二次革命」を発動し、楊殷は積極的に支持し、かつて一人で爆弾で袁世凱の腹心である上海鎮守使の鄭汝成を爆傷させました。1917年、孫文は広州で政権を樹立し、楊殷は元帥府の参軍処に配置されました。楊殷は拳法に精通し、孫文の警備員を担当していました。1918年5月、孫文は西南軍閥との政治争いに破れ、職を辞して上海に移り、楊殷は広州西関の塩務監察所に転任しました。
革命のいく度の成功と失敗は、楊殷に中国革命の前途に対して深く考えるよう触発しました。楊殷はロシアの十月革命の勝利に新しい希望を見出しました。1922年末に、梁復然、楊章甫の紹介のもと、中国共産党に加入しました。その後、塩務監察所の仕事を辞め、革命事業に身を投じ、広州石井兵工場、粤漢鉄道、広九鉄道、広三鉄道などで工人運動を展開し、共産党の基礎組織を設立しました。1925年に、譚平山と広東代表として上海で開催された第4回全国代表大会に出席し、広東、香港での工人運動及び国共合作の経験と教訓を会議の参加代表に紹介しました。同年6月には、省港大罷工(ストライキ)が発生し、楊殷と楊匏安は香港側の労働者を指導してストライキを行い、相次いでストライキに参加した者は25万人に達しました。1927年5月に広東省粛清反革命委員会主席を兼任、10月に中共中央南方局軍事委員会と粛清反革命委員会の指導活動を担当、省委員会委員を兼任、労働者委員会の仕事に従事していました。1927年12月、全国を揺るがす広州蜂起に参加と発動し、また広州ソビエト政府の成立期間中に、広州ソビエト人民粛清委員とソビエト人民委員会の代理主席を務めていました。楊殷は人脈が広く、国民党の左派であろうと、右派であろうと、聯義社、致公堂などの社会団体、さらに民間義士たちとも行き来していたので、これらの組織でトラブルがあると、彼はただちに自らそれを解決していました。
楊殷の娘の楊愛蘭の思い出によれば、翠亨村の村民の楊標、楊文英、楊文竹、陸晋垣、楊伯鳴、楊瑞芝、楊高などはかつて楊殷の革命事業に貢献したことがあり、その中にはスパイになった人もいます。1928年、学生だった楊愛蘭も情報伝達員になりました。そして父の指導の下で、よくカゴバックを持って、香港とマカオの間を行ったり来たりして、情報を伝達していました。
1928年6月、楊殷はモスクワに行き中国共産党「第六回代表大会」に参加しました。会議で中央委員、中央政治局候補委員、中央政治局常務委員候補委員および中央軍事部長に選出され、同年11月、中共中央政治局常務委員に就任しました。
1929年8月24日、裏切り者の密告により、彭逆妟、顔昌頣、邢士貞、張際春らの5人が逮捕されました。敵の脅しと誘惑に恐れることなく、断固として大義を守りました。8月30日、彭湃、顔昌頣、邢士貞とともに4人が上海竜華で国民党の反動派により秘密に殺害されました。年は僅か37歳。死刑に臨む前に、楊殷は監獄の中の同志に「共産主義の実現を信じているので、死んでも安心だ」と平然として言い残しました。共産主義戦士の凛々として大義に赴き、死を少しも恐れないヒーローの精神と気概を示しました。楊殷と彭湃は「中国革命運動工農の二つの巨星」と言われています。