陸皓東(1867~1895)、名は中桂、字は献香、号は皓東、翠亨村人、上海に生まれました。父の陸懐新は上海で商売を営み、洋行の買弁をやっていました。母の王氏は翠亨村近くの泮沙郷王屋村人。
陸皓東は11歳の時、父が上海で病死しました。1878年、陸皓東は母と一緒に父の棺を護送して、初めて故郷の翠亨村に帰りました。父を埋葬した後、母と翠亨村に定住しました。翠亨村塾の馮氏宗祠に入学し、孫文と同窓になりました。青年時代の孫文と陸皓東は非常に意気投合し、飲食と日常生活も一緒で、よく中国の政治の腐敗について意見を交換しました。一緒に村の北帝神像までも破壊したことは当然村民の強く反対を起こしました。そのため、孫文は故郷を離れて香港に留学に行き、陸皓東はその後上海に行きました。
陸皓東は上海に来てから、電報と英語を勉強して、通訳生として蕪湖電報局に入りました。仕事もやり手でリーダになった話もありました。1889年、22歳の陸皓東は母の再三の催促の下、故郷の翠亨村に帰り、同県欖辺郷莆山村秀才の黎吉興の娘である黎竹青と結婚しました。その後、尢列、周昭岳などと順徳で興利蚕子会社を設立しました。孫文は何回も陳少白とともに同会社を訪問し、会社に「自分で創業、利益は農業に戻る」と題した対聯を作りました。
1893年、孫文は広州西関の冼基で東西薬局を開設し、次第に「人を治す」から「国を治す」に転換し、「医業には一日1、2時間、革命には7、8時間」となります。孫文は陸皓東、鄭士良、陳少白および海軍将官の程璧光、程奎光、程耀らの同郷と緊密な関係を構築しました。1894年の初め頃、孫文は故郷の翠亨村に帰り、家で「李鴻章に上げる書」を起草しました。同年の春と夏の間に、孫文と陸皓東は『李鴻章に上げる書』をもって北京に行きました。残念ながら、当時李鴻章は朝鮮問題による日中外交交渉と軍隊撤退の問題に追われており、二人には会う暇がありませんでした。挫折した孫文と陸皓東は二人で北京、天津の周辺を遊歴し、清政府の実力をのぞいて、また武漢に長江の情勢を見に行きました。「北京で清の統治の腐敗の汚さは広州の百倍」に勝り、もう救えないと、明らかに認識しました。
1894年11月24日、孫文はホノルルで中国初の民主革命団体――興中会を設立しました。1895年1月、孫文はホノルルを離れ、日本横浜経由で香港に行きました。楊衢雲と会い、また昔の親友の鄭士良、陸皓東、陳少白、黄詠商らと接触し、「新たな革命同士と連絡し、興中会の組織を拡大しようとすることで、革命を順調にする」と、1895年2月に香港興中を成立しました。1895年3月下旬、孫文と陸皓東、鄭士良は広州で興中会分会を設立し、広州の双門底王氏書舎(今の広州市青年文化宮)などを会所として借り、人の目を誤魔化すため、対外に農学会を称していました。また広州東門外の咸虾欄張公館で機構支部を設立し、陸皓東が常駐し、各地からの同士を招待し、蜂起の武器を収集しました。陸皓東は革命の経費を補助するため、実家の土や不動産を売りました。そして、蜂起の標識の「青天白日旗」を設計しました。
しかし、彼らの行動は既に香港の植民当局及び広東地方政府の注意を招き、半年余り準備していた広州蜂起は発起もできませんでした。両広総督の譚鍾麟は興中会の蜂起の情報を受け取った後、急遽1500人余りを広州防衛に派遣し、王氏書舎、咸虾欄などの革命党機関を捜査しました。陸皓東は情報を得て、直ちに革命同志に避難するように指示し、彼は孫文と他所に避難していましたが、突然党員名簿は双門底機関に残していたことを思い出しました。他の同志は帰るなと勧めましたが、彼は「党員名簿は一番重要で、多数の同志を保護できれば、私個人の命を捧げでも大丈夫だ」と言い、危険を顧みず、両門底機関に決然と引き返し、党員名簿を焼却した後、逮捕されました。
陸皓東は逮捕された後、大義のためにいさぎよく死に臨みます。手足を釘で刺したり、歯を打ち付けたりする残酷な刑を受けても革命党人の情報を提供しませんでした。「今日は成功しなかったが、我が心は安心している。ただの私を殺すことはできるが、私の後継者は、殺し尽くすことはできない」と書き残しました。1895年11月7日、陸皓東は勇敢に命をささげました。陸皓東の稜々とした鉄骨と浩然の気に清の官僚たちも感動し、刑を執行する時、特別に彼に長いシャツに着替えるように命じたそうです。広州蜂起は失敗しましたが、陸皓東などの烈士たちの血は中国の民主革命の歴史に壮麗な幕を開きました。
陸皓東の犠牲を聞き、孫文は非常に悲しく旧友を心にかけました。広州蜂起を振り返って見た時、「心を込めて半年間の準備を完璧にし、絶対に勢いを神州まで漲らせて清政府を倒れて大きな影響を起こそうと思うが、機械の輸送時の不注意で、税関にピストルを六百本以上押収され、わが党の健将の陸皓東が犠牲になった。彼は中国共和革命の犠牲者の第一人者」だと言いました。陸皓東に「気骨稜々、後の死者の模範である。毎回彼を仰げば、悲壮は深く強く胸に沁み亘る」と評価し、また、「あなたは私の心の中で永遠に生き続ける」と言いました。