孫眉(1854~1915)は孫文の長兄、字は徳彰、号は寿屏、清咸豊4年10月17日(1854年12月6日)に翠亨村で生まれました。子供の時から、父と一緒に農業に従事していました。15歳の時、隣の南蓢村に作男に行きました。清同治10年(1871)、同郷の人とホノルルに行きました。ホノルルに来てから、孫眉は最初は農場で働いていました。その後、現地政府から土地を得られ、自分で開墾していました。経営が上手なので、事業がだんだん発展し拡大してきました。清光緒3年(1877)、現地政府は孫眉が開墾のために中国人を募集することを許可しました。翌年、孫眉は同県崖口郷(今中山市南朗鎮崖口村)の譚氏(1862~1938)と結婚し、息子の孫昌が誕生しました。清光緒6年(1880)、孫眉はホノルルのヌアヌ街(Nuuuuuanu Ave)に店を開きました。3年後、経営を拡大するため、店をホノルルの茂宜島に移転しました。清光緒11年(1885)前後、茂宜島で数千エーカーの土地を借りて牧畜業を発展させ、多くの労働者を雇って「茂宜王」と呼ばれていました。
清光緒5年(1879)、孫文は母とともにホノルルに来て、孫眉の店でお手伝いをしました。1879—1883年、孫文は孫眉の資金の援助のもとで、ホノルルイオラニ・スクールとオアフ・カレッジで勉強しました。清光緒20年10月(1894年11月)に、孫文はホノルルに興中会を設立しました。孫眉は興中会に参加し、茂宜分会の主席を務め、破産に至るまでも孫文の革命活動に全力を尽くしました。
清光緒30年(1904年)から31年間、ハワイ政府は新たな地租条例を発布し、孫眉の農場に巨大な損失をもたらしました。孫眉は弁護士を雇って上訴しましたが、敗訴しました。清光緒32年7月(1906年8月)中旬、孫眉は正式に破産を宣言し、茂宜島での経営を終了し、家族を連れて香港に帰り、九龍に定住しました。妻の譚氏は茂宜に留まり、残された財産を競売し、清光緒34年(1908)末にクラ牧場をAntone Tavares氏に売却し、ハワイでの最後の財産譲渡を完了しました。
孫眉は香港に戻ってから、反清革命を引き続き支持していました。清光緒34年4月(1908年5月)、孫眉は田桐、鄧子瑜などと保皇派のシンガポール振武善社での宣伝活動を破壊しました。翌年の冬、孫眉と楊徳初などが蜂起用の旗を縫製して広東新軍を支持しました。清宣統2年8月(1910年9月)、孫眉は「労働者入党事件で、香港政府に追い出された」。同年11月にペナン会議に参加しました。1911年に広州の「三・二九」蜂起を企画し、12月に広州湾(今広東湛江の旧称)に潜伏し、黄鎮東と易名し、民軍を組織して武昌蜂起を支援しました。中華民国成立後、孫眉は広東省の一部の有力者から広東省都督(知事)に推薦されました。1912年2月21日、孫文は孫眉に電報を送り、「広東の有力者から都督に推薦されたことと、政治というものは兄の得意分野ではないと思っている。兄の人柄がずば抜けており、正直すぎて、政界に入ると、正当な理由でいじめられるかもしれない。政界の舞台にいらない時は大衆の願いの帰するところの人物だと思われるが、ちょっとでもミスがあれば、怨念が生まれる。国を救う大事業のために、兄は民軍の安置や実業の立ち上げなど得意なことに専念したほうがいい、都督に就く必要がない。他人に強引に兄を推薦した人があると聞いて、このことが原因となり、きっと悪い結果をもたらす」と、政治家にならないようと勧めました。孫眉は孫文の意見を受け入れ、その後、国内外の有識者を集めて実業を提唱し、人民生活の改善へ専念しました。同年末には香山合勝会社を設立し、供与譲渡の形で香山恭都鶏拍義合での牡蠣養殖基地を経営しました。孫眉は現地での威信が高く、近くの村民の信頼を得ました。口論や財産分配の不均等などの争いがある場合、皆孫眉の家に来て彼に助けを求めました。1913年に孫眉がマカオに移住し、1915年2月11日にマカオで病気で亡くなりました。1934年、中国国民党中央執行委員会は孫眉の遺骨を翠亨村に移し、盛大な葬儀を行いました。2000年11月に中山市人民政府は孫眉の墓を文化財保護部門として公表しました。