楊鶴齡墓は翠亨村の金檳榔山の山腹に位置し、1934年に建造された、現地の伝統的な「圏椅式」墳墓で、花崗岩で造られた石板で建造されました。墓前には幅広の段丘があり、左右には抱鼓石(ほうこせき。中国伝統建築の大門底部に彫られる太鼓に似た形の枕石)及び華表 (かひょう。中国伝統建築の大門前両側に建てられるシンボル性の強い柱) 二つがあり、墓前からは翠亨村が俯瞰できます。墓碑には「楊鶴齡先生之墓 鄒魯敬題」と刻まれ、碑額には楊鶴齡の磁器製の半身遺像がはめ込まれています。墓の右側には石刻の中国国民党中央執行委員会西南執行部が1934年9月3日に制定した褒恤令(ほうじゅつれい)が建てられています。楊鶴齡(1868~1934)は孫文・陳少白・尢列(おうれつ)と共に反清「四大寇」に並び称されます。中華民国成立後に孫文が楊鶴齡を総統府顧問及び港澳特務調査員として招聘しました。2004年、楊鶴齡墓は中山市移動不可文物機構に登録されました。