孫文故居は南朗鎮の翠亨村に位置し、東に座して西向きに建てられ、敷地面積500㎡・建築面積340㎡の建築物です。
本館は孫文の長兄孫眉による1892年ホノルルから帰国した為替送金で孫文が設計及び修繕を指揮して建設された煉瓦・木造建築・三部屋二階建ての家屋です。本館は以下のような独特の建築様式を持っています。1.中西調和。本館の外部装飾は西洋の古典建築の風格を有していますが、内部建築構造と家具装飾品は現地の伝統的な民家の様式をとっています。メインホールには精巧で美しい金箔張りの神棚があり、伝統的な中国式の紫檀(シタン)の家具を用いています。2.東に座して西向き。翠亨村の西に座して東向きの民家とは方向を区別しています。3.扉・窓・通路が多く、2つの階段があり、昇り降り・左右移動いずれも自由に通行でき、居住にも生活にもとても便利です。この建築物の一階中央は応接間で、その後ろには孫文の母の寝室、客間の北側には孫文と正妻の盧慕貞の寝室、南側には長兄孫眉と妻の譚氏の寝室があります。二階中央は何もないですが、後ろには母親の寝室の上に置く神棚があり、北は客室で、南は孫文の書斎です。
孫文はマカオと広州で医療行為を行っている期間、しょっちゅう帰郷して読書と医療行為を行っていました。ここでは『李鴻章に上げる書』を執筆したり、陸皓東と共に救国の方略を討論したりしていました。広州起義に失敗した後、孫文は16年前後の長きに渡って海外逃亡をしていました。1912年5月、中華民国首任臨時大総統の職務を辞して帰郷し、3日間だけここに居住しました。現在大広間の家具装飾品は孫文先生が1892年から1895年にかけてここに居住していた際の風貌を復元しています。
大広間の前面には庭院、右側には孫文の祖居の遺跡があります。1866年11月12日、孫文先生はここで生まれました。1913年の後、孫家は祖居を取り壊し、そこに水井戸を堀りました。庭院の左側には一本の紫檀(シタン)の樹が植えられています。これは孫文先生が1883年にホノルルから持ち帰った種を自らここに植えたものだと言われています。
後院には厨房・厠及び物置があり、孫眉が1913年頃に帰郷した際に建築したものです。
1986年10月18日、国務院によって孫文故居が全国重点文物保護機構として認定されました。