孫文先生は、幼名は帝象。学名は文。字は徳明。号は日新、その後逸仙に改名。日本留学時は中山樵を名乗っており、「中山」の名はここから取られました。
1866年11月12日、孫文先生は翠亨村の一般的な農民の家庭に生まれました。9歳で村塾に入った後、13歳の時にホノルルに移り就学し、17歳で帰国しました。1884年、本県の盧慕貞と結婚し、1886年から1892年にかけて広州、香港で医学を学びました。卒業後、マカオ、広州で医療に従事し、救国の政治活動に力を尽くしました。1894年、李鴻章への上書が却下されると、再度ホノルルに赴いて興中会を設立し、「満洲駆逐、中華回復、衆議政治の確立」を主張しました。
1905年、東京において中国同盟会を設立し、系統的に三民主義の思想を打ち出し、保皇派と激しい論戦を繰り広げました。1895年から1911年にかけて複数回にわたり清朝打倒の武装蜂起を計画し、挫折しますが、その闘志は確固たるものでした。1911年10月10日の武昌蜂起において、各省の賛同を得てついに清朝の専制政治を滅亡させます。これが有名な「辛亥革命」です。
1912年元旦、孫文は南京において中華民国臨時大総統に就任し、中国史上初の共和政体を成立させます。1912年4月に大総統の職を辞し、経済建設の宣伝に尽力します。袁世凱は大総統の職を奪った後帝制の復帰をもくろみますが、孫文は1913年に「第二革命」を起こし、袁世凱に対抗しました。1914年、日本において中華革命党を設立。1915年には宋慶齢と結婚します。
1917年、広州において非常国会を召集し、中華民国軍政府を組織すると、大元帥に推挙され、護法運動を展開します。1919年、中華革命党を中国国民党に改組し、総理の任に就きます。1921年、非常国会では広州において再度中華民国正式政府を組織すると、孫文は大総統に就任し、再度護法の旗を掲げます。1923年、孫文は広州において三度政権を樹立し、陸海軍大元帥大本営を設立し、大元帥の職に復帰します。同年、ソ連と中国共産党の提案を受け入れ、国共合作を決意し、国民革命を推し進めました。1924年1月、中国国民党第一回全国代表大会を召集し、国民党に改組し、改めて三民主義について解説を行いました。同年秋、馮玉祥が「北京政変」を蜂起すると、孫文もこれに応じて北京に向かい、共に国家の政策と方針の礎を築きました。1925年3月12日、肝臓がんにより、北京にてこの世を去りました。